昭和48年7月23日 月次祭(若先生の教話)
                              中村良一


月次祭を終えさせていただきまして、最後のご挨拶をしました時に、今日、あんたがお話せんねと言うようなことになりまして、ま、突然、お話させていただくことになったわけなんですけれども。まぁ、今日は、お話と言うよりも、まぁ、私の、過去、二十九年間の、信心のざんげ話といいますか、もう、お詫びの印にさせて頂きたいと思いますので、まぁ、御理解になるとは思いません。まぁ、そこのところをご了解いただきまして、お聞き願いたいと思うんですけれども。
最近、特に感じさせて頂きます事は、昨日の田主丸共励会にもお話させていただいたわけなんですけれども。私が、信心しとると言いよったけれども、果たして、自分の信心が、どれだけ本当のものであったかと言うことに気づかさせて頂きました。まるで、信心と言う信心をしていなかったという事なんです。それこそ、教祖が、信心とは、わが心が、神に向かうのを信心と言うのじゃと、仰っておりますけれども。一向に、私の心が、神様のほうに向いていなかったという事。とてもとても、人を助けるというほどしの信心が出来ていなかったという事を思わせて頂きます。
おかげを頂きまして、まぁ、そういう事を分からせて頂いた事も、大変な広大なおかげと思うんですけれども。今までの、まぁ、これからとでも、いくら、私が、信心したと、一生懸命になったち言うたって、神様の目からご覧になりゃ、親先生の目からご覧になれば、たいした信心は出来ないと思うんですけれども。まぁ、これからは、まぁ、あの、つー一杯の信心を、いわゆる、根限りの信心をさせていただきたいと決心させていただいておるわけなんですけれども。まぁ、そのきっかけと申しますのが、家の聡子が、先月の終わりの頃から、風邪というよりも、あの、百日せきみたいなのを患いまして、もう、ですから、ここ一ヶ月間ほど、ほとんど、夫婦で、不眠不休のおかげを頂いて、修行させていただいとる訳なんです。あの、こづき出したら、あの、息が止まるんですね。止まりまして、もう、真っ青になって、かくっとこうなるんですよ。もう、そういう事が、何べんもありまして、もう駄目じゃというような、あの、ことに直面させていただいたんですけれども。それをこう、じっと見させて頂きよって、本当にあの、別にあの、確かに動揺と言うものはありますけれども、それを見させて頂きよって、もう、無性に、自分の信心の、根底から揺るがされるものを感じたわけなんです。こら、どういうところに原因するか分からないけれども。そういう時に、本当にあの、不壊の和賀心と、親先生が仰いますけれども、こういう状態の時に、本当にあの、金光様有難うございます、親先生有難うございますというのが、本心から出てくるかなと思う、その、かくっとなった時にですね、思う時に、もう全然その、和賀心らしい和賀心を頂いてない自分というのに気付かせていただいて、家の家内に言いました。こらもう、「聡子をおれにくれ」ち言って、こら一遍おら、聡子に掛けてみると。あの、まぁだから、聡子の、まぁ、大げさに言えば、命を私に預けて欲しいというようなことで、おかげを頂いてまいったんですけれども。まぁ、もうそういう状態のなかに、もう、神様のその、微妙な働きの中に、ま、今日まで、おかげいただいておるし、この頃、二三日前に、聡子が、夜の御祈念、これは私が居らない、日田の共励会の時でしたか、行っとります時に、やっぱりあの、夜の御祈念の時にこづきまして、同じ状態を、がーっと吐きましてですね。息が止まったらしい。そこを、親先生が、ちょうど目撃されて、その事を神様にお願いされたところが、あの、聞き届けたと仰ったらしいですね。今までは、聡子の聡は、大坪総一郎の総。糸偏で、こちらがあの、公と言う字でしたかね、公の心の総でしたけれども。これから、あの、聡子のサトは、耳偏のサトにしなさいという事で、耳偏のサトを頂かれたという事なんです。それからこっち、おかげさまで、昼間はあの、ご覧の通りに、あんなんでけれども、夜は、やっぱりあの、まぁだ、こちらのほうが至っておりませんので、多少、修行させていただいておりますけれども。まぁ、親先生からやら、皆さんからも、よく言われたですけれども。若先生ほど、子煩悩なとは思わなかったと言われるほどに、えー、私は、奥様煩悩であって、子煩悩なほうですが。まぁ、そういう意味合いで、一番、やっぱりあの、ここが痛いと。一番ここが、この人のウィークポイントだというところを、やっぱり神様が一番ご存知だという事ですね。ですから本当にあの、もし、切ないほどしの、胸が痛うなるほどしの御祈念というのは、やっぱり、そういう時にしか出来ないですよ。ですから、本当にあの、もう一番、自分の弱いところを、神様が捕まえられまして、今まで、それこそ、親先生に、こういう思いをさせてきた。神様にも、いらいらする思いをさせて来とる訳です。
昨日も、田主丸の共励会で申し上げたんですけれども。私の、性格的欠点が、自分がこう、合点しないと、それを実行しようとしない欠点がありまして。例えば、親先生からお話を頂きましても、本当に、素晴らしいと思うけれども、自分の身体で、自分の頭で合点せんと、それをやろうとしない欠点を持っておったんですけれども。けれども、確かにそれも、いいかも分からないけれども、一番きつい信心のやり方だという事を分からせて頂いたです。
繁雄っちゃまに、お書き下げを頂いておるという、素直心の一つにて雲の上まで上る道ありと仰いますけれども、本当にあの、素直ほど、神様に通じ、信心が上達する道はない。一番、楽な道であるという事も分からせて頂いたわけなんです。それと、もう一つ、私達が、神様に、例えば、難儀な問題がある時に、お願いさせていただく時に、お取次ぎというものは、本当にこの、つー一杯なものが、溢れたものがお取次ぎの作用と言うことになってこないと、お取次ぎと、お取次ぎを頂く者の、本当の作用というものは、出来てこないという事も分からせて頂いた。
例えば、卵が、あれは、けばしると言うですか、こう、なかがこう割れるやつ。あの時、その卵がけ割れる、その瞬間と、上から、親鳥がつつく、その瞬間が同時だという事です。だそうです。僕は、鶏になったことがないから分からんけれど。そういう事なんだそうですけれども。確かに、自分の、本当のことを分かりたい。どうぞ助けてくださいと言う、その一心と、本当にこの、お取次ぎから、助けたいというものが、一緒になった時でなければ、あの、本当の助かりとか、本当のものは生み出される事にはなってこないという事。という事も、ま、今度は、頭ではなくて、心で分らせて頂きつつあるというとこなんです。
先月の、三十日に、大祓い式が行われさせていただいたんですけど。聡子がもう、最高に、その三十日は悪い、一番最高潮だったです。それこそ、過去、私の、二十九年間の大祓いを受けたような気持ちをさせて頂いたわけなんですけれども。けど、この頃、親先生が、私の部屋に入って見えまして、聡子が生まれたときに、お書き下げ頂いたのに、公と言う字を頂かれてたんですけれども。その公という字が、今頃になって、ようやく意味が分かりだしたねと仰ったです。こら本当に、大変な、やっぱり、お役に立っとるですね。たとえば、合楽教会の二代目に、こういう大事なことを分らせて頂いたという事だけでも、それだけでもお役に立っとるわけなんです。まぁ、どう言うことにかかってくるか分らないけれども、確かにあの、公のことに心を使うという。その事を、一生懸命、練らせて頂きよりまして、大坪聡子のお届けをさせて頂きましたら、その前に喜多康代と言うお届けがありました。で、本当にあの、親の思い、切なさといいますかね。本当に喜多さんも、康代さんを見る時、こういう切ない思いで祈られておられる。こういう切ない思いで願われておられると思うたら、もう本当に願わずにはおれなくなりましたんですけれども。その事をさせていただいた夜の、それは月次祭の夜でしたけれども、親先生も、やっぱりおんなじことを仰った。あの、康代さんのことを一生懸命お願いさせていただきよったら、聡子がニコニコするところを御神願に頂かれたという事なんですけれども。ですから、こらまぁ、あの、私達の、浅はかな憶測では分らない、神様のお考えは分らないですけれども。ま、聡子の、そういう病気を通させていただいて、まぁ、これからまぁ、どういう風に神様が、お育て頂くか分りませんけれども。
先日から、親先生の御理解に頂きますように、私達が、人生の終着駅に着いたときに、例えば、東京に行こうと思うておるはずのに、そこに着いた時に、あら、鹿児島じゃったというような事がないように、お互い、気を付けさせて頂かんといけんという御理解を頂いたんですけれども。おかげさまで、まぁ、二十九にして立たせていただいた。まぁ、私の、人生計画の中に、まぁ、三十までは、私の好き勝手をさせて頂きますという約束を神様にさせていただいとったけど。まぁ、やや、半年ほど早く、神様とお約束が守られそうです。そういう意味合いで、有難いと思うんですけれども、もう一遍、こらもう、私だけなら、本当に良いんですよ。けど、お互いの信心を、もう一回、本気で改めて見直していただきたいと思うんです。本当に、せっかく、これだけ信心を、何十年させていただきよってですね。本当にもう、何にもならない、それこそ、砂上の楼閣的な信心を、お互い、積み重ねよらんかという事なんです。こら、私だけなら、良いんですけれども。まぁ、一つ、もう一度、反省させていただく必要があるんではなかろうかと思います。これは、まぁ、釈迦に説法であれば、幸いだと思うんですけれども。もう一度、改めさせていただいて、自分の信心が、どこまで本当なものか。どこまで、神様を信じきっての信心なのか。どこまで、私が、わが心が神に向かうての信心をしておるかという事を、もう一度、改めて、吟味させていただく必要があると思う。でなければ、せっかく、やれやれ着いた時に、それこそ、何にもならなかったというような事があったら、真に申し訳ないし、馬鹿らしい話だと思わせていただいて、まぁ、ようやくここにして、気付かせて頂いて、まぁあの、これから、いよいよ、本当の信心を、ま、どれが本当とは分りませんけれど、少なくとも、親先生の信心に着いていけば間違いないという事だけは確かです。
せめて、親に安心のしていただく信心だけは、ここに一つ決心させていただきました。さして頂きたいと思わせていただいております。ただいま、夏季信行期間も、半ば過ぎました。あと残り、一週間ほどになります。そういう意味合いにおきましても、本当にあの、今度の夏季信行期間は、私にとりましても有難いし、これはあの、まぁ、本当にあの、信心の裏話なんですけれども、確かにあの、自分の心が、そうやって生き生きしてまいりますと、神様の、それこそ、霊妙不可思議な、西岡先生が、この前前講で言っておりましたけれども。そういう霊徳面に触れていくというような事を仰ってますけれども、あの、確かにわが心が、神に向かう信心と同時にですね。おかげは和賀心にありと言う信心と同時に、一心に願うという信心には、あの、そういう、霊的な働きも、一緒に頂いていかなければ、本当には、神様は信じられないと思いますですね。本当にあの、ぞっとするような神様の働きも、一緒に頂きながら、わが心が神に向かうという信心も、同時にさせていただかなければ、あら、天地書附というのは、ただ、和賀心になっとけばいいという事じゃないと思います。生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありという事です。ですから、やっぱりあの、一心に願う。秋永先生が、この頃から、仰っておられます、祈念の稽古ですね。これも、同時にしていかなければいけんと思います。霊的な事にも、こら、触れようと思うて触れることじゃないんですけれども、そういう、いわゆる、影的なこととして、それは備わってくるものだと思うんです。これは、まぁあの、公言しないが良いという事ですので、公言しませんけれども、ま、そういう事が、積み重ねられなければ、本当にあの、信心の、はぁ、間違いないなというものが、陰と陽が一緒になったおかげになってこないんじゃないかと思わせていただきます。まぁ、あと一週間の、夏季信行に、一つ、お互い稽古させていただいたら、結構だと思います。もう一度、信心の、私の信心の再検討をさせていただきたいと思わせていただいとります。どうもあの、ざんげ話をさせて頂きまして、今日の講話をさせて頂きました。有難うございました。